神野新田に関する長期年表

赤…毛利&神野新田  ・緑…神野家  ・緑…富田家&紅葉屋  ・紫…その他関連


永禄年間(一五五八~一五七〇)の頃

 ・神野家先祖(文廣)が一家で大和より美濃国海西郡秋江郷に移住する

元亀~天正年間(一五七〇~一五九三)の頃

 ・伏見の圓龍寺(明治に入って神野新田に寺籍を移して神野新田の圓龍寺となる)は創建年は不明だが、

  この時代の石山合戦により焼失、その後再建されることもあったが明治初期は廃寺同然の状態

天正年間(一五七三~一五九三 )の頃

 ・秋江に暴動事件があり、神野家は木曽川の付近の寄洲に避難した

慶長十四年(一六〇九)

 ・木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約五十にわたる「御囲堤(おかこいづつみ)」が築かれる

寛永年間(一六二四~ 一六四五)の頃

 ・神野家は立田輪中の開拓に尽力し以降江西で暮らす、土地開拓の豊富な知識を得ることになり、後の

  菱池新田や神野新田の開拓につながったと考えられる

慶長(一六六〇)の頃から

 ・豊川河口や六条潟に干拓地が作られ始め、江戸末期まで数多くの小規模新田が開拓された

  (一六六三年には清須新田が完成する)

宝暦年(一七五

 ・薩摩藩は江戸幕府に命じられ、木曽三川の分流を目的とする宝歴治水工事を行った

詳細年不明

 ・江西神野家代の頃、江西における神野家の基礎が確立したもよう

 ・代金平は上立田村(江西)の庄屋を勤めた

 ・長男の代金平は家督を継ぎ、次男は分家して神野佐十郎、三男は高須の田中家に入り田中藤兵衛

  ◦神野佐十郎(佐重郎)の子は増太郎(二代目佐十郎)孫が神野清児

  ◦田中藤兵衛の子が田中春城

寛政年(一七九三)

 ・紅葉屋初代当主となる初代富田重助鹿助(幼名房次郎)が富田忠兵衛道寧の男として知多郡吉見で誕生

寛政十二年(一八〇〇)

 ・孟夏日、伏見の圓龍寺は宣如上人より阿弥陀如来木像を授かる

文化年(一八一二)

 ・七代神野金平(初代金之助の父)が江西神野家の長男として誕生(四男一女の兄弟、長女の情報は不明)

  ◦七代金平の弟の二男は分家した神野悦蔵、三男文吾(第十四番観音寄進者)は隣村の藤ケ瀬の宮原家を

   継ぎ、四男の岩次郎は伊勢一志郡雲出村の川口家の養嗣となった

  神野悦蔵の子が神野悦三郎(第一番観音寄進者)

  文吾の子が宮原惟義(父と連名の第十四番観音寄進者)

  岩次郎の妻が 川口ぢう、子が 志ま(第番観音寄進者)

文化十一年(一八一五)

 ・杢野甚七(もくのじんしち:愛知と三重の海で初めて海苔養殖をした)が前芝に生まれる

文政一年(一八一

 ・三輪まつ(金平の妻、三代重助、ゑい、初代金之助の母)が江西で生まれる

文政三年(一八二〇)

 ・二十七日、福島献吉が吉田藩の命により青竹新田の左側(西側)に富士見新田開拓工事を開始する、

  後に開発される毛利新田は富士見新田を取り巻くように左側(西側)がメインとなる

  (福島献吉の測量が毛利新田と牟呂用水の基となる)

文政年(一八二一)

 ・二十四日、富士見新田(西、中、東の区画)が一応完成するが、その後波浪により破堤し荒廃

  西富士見新田は早くに復旧となり富久縞新田となるが、中と東は長く放置され、明治十三年になって

        西と東明治新田として復旧、芳賀保治も出資者の一人)

文政十二年(一八二九)の頃

 ・初代富田重助鹿助、当時三十六歳で知多の吉見から名古屋中須賀町に出て小間物屋「紅葉屋」創業

  (紅葉屋は鹿助にちなみ、花札の鹿と紅葉から命名されたようで、看板にも鹿と紅葉が描かれている)

文政十三(一八三〇)

 ・人見璣邑(尾張藩明倫堂創設者)の身内の末太郎一歳(後の代重助)が紅葉屋の養子となったよう

天保年(一八三一)

 ・代神野金平が二十一歳で留木裁許役に任ぜられ名字帯刀を許される

天保四年(一八三三)

 ・幕府が牟呂沖の大津島(現在の田原湾の東あたり)を中心に大新田開拓を計画する

 ・月、吉田藩主が幕府に対抗し福島献吉に調査測量をさせる、結果は富士見新田の西側外回りの干拓と

  豊川からの灌漑用水路は、後に作られる毛利新田(神野新田)と牟呂用水によく似たものであり、毛利

  新田と牟呂用水の設計に生かされた

 ・毛利新田(一、一〇〇町歩)- 福島献吉の開拓案は二回新田側が五十町歩と小さかったよう

天保五年(一八三四)

 ・十三日、神野三郎の父、竹田長蔵(晨正)が清州で生まれる

天保六年(一八三五)

 ・月、幕府と福島献吉の富士見新田の外郭の開拓計画は、実行されることなく立ち消えとなった

 ・月、福島献吉が亡くなる

 ・代神野金平が同じ村の三ノ輪の娘、マツと結婚(初代金之助の父母)

天保七年(一八三六)

 ・代神野金平の長男の小吉(後の代重助重政)が生まれる

  ◦代神野金平とマツは女をもうけるが、男~四男は早世する

天保九年(一八三八)

 ・代神野金平は別居して給父で寺子屋を開くが短期間で閉じ、高須街道沿いで肥料の干鰯販売を開始

 ・二十七日、隣家の失火で自宅が燃えるが干鰯土蔵は被害が無く、土蔵を店舗に改修して商売を継続

天保十年(一八三九)

 ・十五日、浅野甚七(後の紅葉屋総番頭)が美濃で生まれる

天保十一年(一八四〇)

 ・十八日、服部長七が三河国碧海郡棚尾村(現・愛知県碧南市)で生まれる

天保十二年(一八四一)

 ・日、藤田伝三郎が山口県萩で誕生、伝三郎は児島湾の新田開発と農場経営した藤田組のオーナー

  (民間人で一千町歩以上の新田を開拓・経営したのは、初代金之助と藤田伝三郎の人のみ)

天保十五年・弘化元年(一八四四)

 ・紅葉屋の初代当主の富田重助鹿助が養子の末太郎十五歳に家督を譲り、末太郎が代重助を襲名する

弘化(一八四六)

 ・紅葉屋の末太郎(代重助)が亡くなる

弘化年(一八四七)

 ・代金之助の長女、ゑい(後に竹田家に嫁ぎ神野三郎の母)が生まれる

 ・代神野金平の干鰯販売、鵜多須陣屋より隣村十一ケ所への肥料貸付販売の特権を下附され繁盛する

 ・妻マツは質屋業を営んでいた(名古屋に出る時、質屋業は江西の佐十郎に引継ぐ)

 ・破堤していた西富士見新田が復旧され、富久縞新田と命名される

嘉永年(一八四九)

 ・代金平の男、岸郎(後に初代神野金之助重行と改名し家督を相続する)が江西に生まれる

 ・紅葉屋は浅野甚七(後に総番頭となる)を美濃羽島郡船橋村から雇い入れる

嘉永年(一八五一)

 ・月、代神野金平の長男幼名小吉、後の代重助重政)が十五歳で「紅葉屋」の養嗣となる

  (紅葉屋の初代重助鹿助の妻が江西の隣の立石村の出身の関係で、神野家に狙いを付けた)

嘉永年(一八五三)

 ・月三日、ペリーが浦賀に来る

 ・前芝の杢野甚七が前芝の浜で海苔が育つことを発見する

安政元年(一八五四)

 ・初代富田重助鹿助が六十一歳で亡くなる、友三郎(幼名小吉)代重助(重政)を襲名、これを

     契機に父の代金平(四十二歳)が三代重助重政十八歳の後見として紅葉屋に同居する

 ・杢野甚七が篊(シビ)に海苔が付くことを発見、三河湾内における海苔の篊(シビ)建て養殖の始まり

 ・日本とアメリカの日米和親条約が結ばれる

安政年(一八五六)

 ・十八日、服部長七、十七歳で父が亡くなり豆腐屋を開業

安政年(一八五七)

 ・月十二日(戸籍は七月七日)、三河海苔発展の功労者となる芳賀保治が牟呂村大西で誕生

 ・服部長七、桑名の左官職人の弥兵衛の弟子になる

安政(一八五八)

 ・四月二十三日、井伊直弼が大老になる

 ・日米修好条約の締結(アメリカは南北戦争で日米関係は尻つぼみ)、イギリスが日本に近寄る

安政(一八五九)

 ・月、代金平(初代金之助の祖父)が亡くなる

 ・日(旧暦の日)に横浜港開港

万延元年(一八六〇)

 ・三月三日、桜田門外の変

 ・毛利祥久(後に毛利新田を開拓する)が山口県に生まれる

 ・神野悦三郎が神野悦蔵の長男として江西で生まれる、父の悦蔵か早く亡くなり悦三郎は神野本家で

  初代金之助らと一緒に暮らす(悦三郎は初代金之助より十歳年下)

文久(一八六三)

 ・七代金平の長女ゑい(初代金之助の姉、竹田鋹太郞 や神野三郎の母)が竹田長蔵(晨正)と結婚する

元治元年(一八六四)

 ・月十八日、竹田鋹太郞(神野三郎の伯兄)が清洲で誕生

 ・日、岸郎、十六歳、江西神野家を相続し、初代金之助(重行)を名乗る

 ・尾張藩が藩内の豪農・豪商に長州征伐の献金を賦課し、紅葉屋は御用達格を仰せつかる

 ・十二二十六日、父金平が金之助名で献金したので初代金之助は帯刀御免の特権を付与された

 ・代重助重政 は洋物も扱うことを決定し行動に移す(横浜で仕入れる)

 ・服部長七、桑名で牧野重治郎と醸造業を始める

慶応元年(一八六五)

 ・若い尾張藩士(金鉄組)が洋物商を排除させようと紅葉屋に舶来品の販売停止の脅しをかける

 ・この頃の紅葉屋の商い高は、千両/日との話があるが、当初の洋物購入資金は借金によるもの、自転車

  操業を繰り返しながらも莫大な財産を形成していった

 ・洋物が繁盛し手狭になり、家の向い側(東側)の屋敷を購入して、こちらで洋物を商いした

慶応年(一八六六)

 ・代重助重政が、黒田文右衛門の娘ふさ(日記では八重)と結婚

 ・日、紅葉屋事件(金鉄組が紅葉屋を襲撃し刀で反物他の商品を破壊)

慶応年(一八六七)

 ・月、 代重助重政江戸に赴く

 ・七月、後の明治銀行頭取になる大三輪奈良太郎が生まれる

 ・十二月、代重助重政、尾張藩への献金により一代限りの「年頭御目見・非常の節帯刀」となる

明治元年(一八六八)

 ・月、代重助重政、御復唱休業のため調達金割当免除を願い出る

 ・日、御為銀月分として、金一四五両朱・銀厘を洋物改所へ出す

明治二年(一八六九)

 ・月、代重助重政、軍用金献金により一代限りの「居宅町役金免許」となる

 ・月、吉田藩が豊橋藩と改める

 ・月、代重助重政、官札に関する嫌疑で七月十日~十八日間役所に拘留されるが冤罪で放免される

 ・月、初代金之助も鑑札に関する嫌疑を被る

 ・代重助重政、奉行所御用達をしている

明治三年(一八七〇)

 ・月、代重助重政、初代金之助重行二十一歳、大野十兵衛が商品仕入れに上京すし横浜に立寄る

 ・月、仕入れの帰りに善光寺を詣でる

 ・月、名古屋に神札が振った怪事があり、「エジャナイカ」が流行った

明治(一八七一)

 ・月、代金平、 代重助重政 、名古屋城内に呼ばれ、失職士族の救済資金の寄付を求められる

 ・十一月、鉄砲町に郵便役所が開設(紅葉屋も仕入れ先の横浜との連絡で利用)

 ・明治年頃、代重助重政 は岐阜県下で土地を担保に貸し付けをしていたよう

 ・服部長七、三十二歳、桑名本町春日神社前で饅頭屋を始める

 ・大木豊子(神野豊子)誕生

明治(一八七二)

 ・十五日、 代重助重政とふさ(日記では八重)の長子、吉太郎(後の代重助重慶)が誕生

 ・日、名古屋県を愛知県と改称

 ・月、初代金之助二十四歳、江西村外ケ村の副戸長となる

 ・月、初代金之助、東本願寺に燈瑤珞(ガラス製の明かり)を寄付する

 ・十一月、代金平が大蔵省から生糸輸出の奨励策をまとめるために横浜に招致される

 ・服部長七、郷里の新川に帰り饅頭屋を始める

 ・名古屋電信局が開設(紅葉屋も郵便より速い電信を連絡で利用)

 ・明治政府が土地売買を許可し、地券の交付を開始した

明治(一八七三)

 ・十二日、 代重助重政、愛知県の生糸御用で二月十日まで東京に出張

 ・月 、渥美郡牟呂村に第中学区第十一番小学校牟呂学校として開校

 ・月、草間小学校(後の磯辺小学校)が現在の一色町の長栄寺の仮校舎で開校

 ・十二月、初代金之助二十五歳、江西村外ケ村の戸長となる

 ・服部長七が東京に出て饅頭屋を営む、店頭の土間をタタキにして有名になる

 ・明治政府が地租改正条例を布告

 ・明治政府が秩禄奉還の法を設けた

 ・ 代重助重政は名古屋熱田前新田反余を購入、この頃から各地の土地購入を拡大していったよう

 ・オランダの土木技師、ヨハネス・デ・レーケ達が明治政府に招かれ来日

  (オランダの高度な干拓や築堤の技術が日本に持ち込まれた、直接の管理下で多くの工事も実施された)

明治(一八七四)

 ・重行(初代金之助)はこの頃から紅葉屋の手伝い、岐阜で兄同様土地を担保に貸し付けをしてたよう

 ・服部長七、タタキ屋を始めるも流行らず、吹矢の露天商もする

明治(一八七五)

 ・月、兄の重助重政の子、吉太郎(後の代重助重慶)が重行(初代金之助二十六歳)の養子となる

 ・二十八日、竹田三郎(後の神野三郎)が清州で生まれる

 ・ 代重助重政、秩禄奉還願いを廃止を前に公債関係を多く買い受ける

 ・明治政府が秩禄奉還願いを廃止した

 ・服部長七、タタキ屋が宮内庁御用達となり、大久保利通や木戸孝允邸の工事も手掛ける

明治(一八七六)

 ・月、重行(初代金之助二十七歳)、江西他の戸長を辞し、江西を出て紅葉屋に入る

 ・江西の管理を江西在住の初代神野佐十郎か増太郎(二代目佐十郎)に託す

 ・月、代重助重政が病で床に臥す

 ・十七日、代重助重政が亡くなる、享年三十九年五ヶ月

 ・月 、 中学区第三十一三十二番小学校牟呂学校に改称する

 ・月、吉太郎(歳)が富田家に復籍して紅葉屋を相続する

 ・十一月、代重助重政の遺言により、初代金之助が吉太郎(代重助重慶)の後見人となる

 ・十一月 金禄公債の値上がりを信じて購入(明治十一年秋に売買が許可、大きな利益となる)

 ・十二月、吉太郎(代重助重慶)の名で紅葉屋の洋物商廃業届を愛知県に提出する

 ・十二月、廃業に反対した店員が営業継続嘆願し、神野が富田家を私物化するという張り紙を出す

 ・十二月、洋物の在庫品を売り払い、神野家一家が富田家に同住する

 ・十二月、紅葉屋は番頭の浅野甚七(第十八番観音寄進者)に譲り渡し、甚七は本家の南隣に店を開く、

      商売繁盛で店が手狭になり店の筋向いに移転する

 ・初代金之助(二十八歳)は後見人として一家で富田家に入る、この時点で妻きみ(兄の妻の妹)とあり

 ・初代金之助は土地を担保の貸し付けを三重県下に拡大していった

 ・服部長七が長七タタキの商売を東京銀座1丁目19番地で始める

明治(一八七七)

 ・二十九日、富田吉太郎が代重助(重慶)を襲名する

 ・月、初代金之助二十九歳、名古屋米商会所取締役に選ばれる

 ・木曽三川分流工事で、オランダ技師のヨハネス・デ・レーケが明治政府により現地に派遣される

 ・西南の役が起きる

 ・服部長七が第一回内国勧業博覧会に土の技術を使った製品を出品し鳳紋賞牌を受賞、併せて博覧会会場

  入口の泉水池のやり直し工事で成功せしめ、博覧会担当者の品川弥二郎と懇意になる

明治十一(一八七八)

 ・月、神野・富田家は三重県下の数村に亘り土地(最初は鈴鹿郡椿村大字山本)を購入

 ・月、初代金之助三十歳、本籍を江西村から名古屋鉄砲町に移す

 ・十一月二十日、山口県に士族の金録公債六〇万円を資金に第百十国立銀行が設立され、初代頭取に毛利

          祥久の義父の親信(姉の婿)が就任する

 ・十二月、金之助・きみに長女すずが生まれる(後の四代重助重慶の最初の妻)

 ・金録公債売買譲渡解禁(値上がりし、前もって安く買ったおかげで莫大な利益を得る)

 ・二回新田となる場所を取り囲む各村が合併して磯辺村が発足する

 ・オランダ技師のヨハネス・デ・レーケが木曽三川と周辺の地形を調査する

 ・服部長七は愛知県の命を受け、明治天皇行幸のための岡崎「夫婦橋」架け替え工事を完成させた

明治十二(一八七九)

 ・美濃秋江で後の神野新田の幹部となる渡辺増治(五郷)が生まれる

 ・初代金之助三十一歳、江西の住民71人に対し反を寄付する

 ・宮原惟義(代金平の弟(男の文吾の子)が紅葉屋本店に入店し土地経営事業に参加する

 ・愛知県土木課の山口県人である岩本賞壽は、牟呂・磯辺・大崎地先の寄り洲に新田開拓の構想を描く

 ・草間小学校(後の磯辺小学校)が現在の場所に新築され移転する

 ・服部長七、東京麹町富士見町の水道工事を請け負う、その後架橋・水道工事は請けないことになる

明治十三(一八八〇)

 ・月、紅葉屋の事業の総精算で数十万円(現在の数十億)の利益を計上する

 ・月、伊勢の土地を管理するため、伊勢松阪町に神野分店を設ける

 ・月、破堤し荒廃していた中と東の富士見新田を、牟呂の九人(芳賀保治も出資者の人)による

     改修工事に着工

 ・月 、渥美郡第番小学牟呂学校に改称する

 ・十三日、中・東富士見新田は西明治新田と東明治新田として復旧される

 ・月、初代金之助、名古屋肥料会社社長に選ばれる

 ・初代金之助三十二歳、東本願寺本山再建局に鐘楼用材の寄付を申出る

 ・この頃、愛知県庁土木課の岩本賞壽が牟呂沖の寄り洲が開拓に適しているのを発見

明治十四(一八八一)

 ・月、初代金之助三十三歳、名古屋商法会議所会員に選出される

 ・服部長七、第会内国勧業博覧会の会場や噴水池を請け負う、長七タタキを人造石と命名、有効賞碑を

  授与される

 ・服部長七、高浜の服部新田工事着手

明治十五(一八八二)

 ・月、初代金之助三十四歳、岐阜の高須別院に梵鐘を寄進する

 ・十五日、神野りき(後の神野三郎妻)が初代金之助の三女として江西に生まれる

 ・月、名古屋銀行設立(現在の名古屋銀行とは無関係)

 ・十二月、初代金之助、三重県椿村の土地を大阪鎮台に貸与する

 ・神野本店(神富殖産の前身)が津に支店を出す

明治十六(一八八三)

 ・月、紅葉屋本店に盗賊が押入る、初代金之助と母マツが負傷する

 ・十一月、竹田鋹太郞(神野三郎の伯兄)が竹田家の家督を相続する、この後に父の竹田長蔵(晨正)は

  名古屋の横三蔵にアトリエを構えたよう(大正年の書籍より)

 ・十一二十日、竹田三郎、祖父代金平の養子(神野三郎)として江西に送籍される

 ・服部長七、人造石で高浜新田(服部新田)築工

 ・紅葉屋が悪質な店員による私文書偽造で多額の損失を被むる

明治十七(一八八四)

 ・月、初代金之助三十六歳、三河額田郡菱池墾田五十余町歩の県有地の払い下げを受け開拓に着工する

 ・十二月、初代金之助、池田とし(21歳頃)と結婚する

 ・渥美郡第学区小学牟呂学校に改称する

 ・服部長七、宇品港築港工事契約を結ぶ、工事は自然災害にも会いケ月を要し明治二十二十一月に

  完成した

 ・片山可造(番観音寄進者)は服部長七と組んで宇品港の工事をし、その後も長七と仕事をしている

  (服部長七と何時頃から仕事を一緒にしているかは情報を得てない)

 ・大阪の豪商の藤伝三郎が岡山県の児島の干拓事業を依頼され、グループの藤田組が開拓申請するが、住民の

  反対など種々のトラブルで工事開始が明治三十二年と十五年間待たされる

 ・豊川上流域旱害

明治十八(一八八五)

 ・月、山口県出身の勝間田稔が愛知県令(翌年に県知事と呼び名が変わる)として赴任

 ・土木課の岩本賞壽は、同県人である勝間田県令に牟呂沖開拓のメリットを報告する

 ・月、初代金之助三十七歳、三重県能褒野(のぼの)山林の完成式を行う

 ・月、初代金之助、東海汽船社長に就任する

 ・十一月、初代金之助、東京の大日本坩堝支援の関係で品川弥二郎と面識を得る

 ・明治二十二年までの間、宇品港工事代金を広島県が現金で払えず服部長七は破産しかかり、品川弥二郎

  に相談、品川より初代金之助に支援依頼があり服部長七に融資をした、この時に初代金之助は人造石を

  知ったよう

 ・初代金之助、三重県一志郡下川村ほか五ケ村数百町歩に植林を行う

 ・ついで三重県鈴鹿郡椿村山本に三〇〇町歩の桑園、養蚕、牧牛の各事業に着手する

 ・毛利親信が亡くなり、毛利祥久が第百十国立銀行の取締役(頭取ともあるが)に就任したが、銀行は

  融資先が無く困っていた(毛利祥久二十五歳) 

 ・木曽三川分流計画書(国家行事)が、オランダ技師のデ・レーケにより作成される

  (愛知県庁も新田開拓を勧めたいと考えたはず)

 ・服部長七、愛媛県三津浜港の築堤を請け負う

 ・服部長七、パリ発明博覧会に人造石を出品して銅賞

明治十九(一八八六)

 ・月、名古屋大垣間の鉄道が開通

 ・月、武豊線開通、熱田駅ができる

 ・月、熱田笹島間(最初の名古屋駅)の鉄道が開通

 ・日、初代金之助三十八歳、菱池新田成工式を行う、勝間田稔県令らが参列

 ・県令が県知事と改称される(勝間田県令から勝間田知事と役職名が改称)

 ・月、代重助重慶十四歳、愛知県立名古屋商業学校へ入学する

 ・初代金之助は奥田正香らとともに三重紡績株式会社(後の東洋紡)を設立する

 ・初代金之助の姉で竹田家に嫁いだゑいの三男、竹田三郎が代金平の養子となり神野三郎となる

  (ここで三郎は初代金之助と義理の兄弟だが、後に金之助の養子となり義理の息子となり、りきと

   結婚して娘婿、明治三十八年に分家して豊橋神野家の初代当主となる)

 ・勝間田稔知事が毛利祥久に牟呂沖の新田開拓を勧め、毛利は翌明治二十年に工事を請ける

   (この時点で福島献吉の富士見新田周りの九百町歩案と二回新田の二百町歩を合計した千百町歩の開拓

    計画であったはず・・・岩本らが日本初の民間企業による町歩超の開拓を狙ったと思う)

明治二十(一八八七)

 ・月、賀茂・金沢・八名井三ケ村、頻繁の旱害に対して賀茂用水路開拓出願、月着工し、月竣工する

 ・月、渥美郡尋常小学牟呂学校に改称する

 ・月、岩本賞壽が土木課課長と記載されている

 ・月、岩本賞壽が後の牟呂用水現地調査、毛利新田までの延長を考慮した先行調査と推測される

 ・月、暴風雨のため賀茂用水が破壊され三ケ村では工事継続困難になった、岩本賞壽が毛利に賀茂用水を

     修理延長して、新田の灌漑用水にすることを提案、毛利は費用負担で工事することを承知した

     (毛利も三ケ村も県庁の全てが得策に見えるが、岩本の陰謀?にはめられたと考える)

 ・十一日、毛利祥久らが牟呂吉田沖に千百町歩の新田開拓計画を予算十二万六八一円で出願

        (契約書は第百十国立銀行の名ではなく毛利祥久であったため、後に毛利新田と呼ばれる)    

 ・十一二十日、毛利祥久らが賀茂用水を延長する牟呂用水計画を出願

 ・十一二十六日、牟呂用水計画が認可され、さっそく毛利による工事に着工する

 ・十二二十二日、出願した新田開拓計画に免許が出る

 ・毛利祥久が毛利新田開拓のための用地買収する

 ・竹田鋹太郎(第二十九番観音寄進者)、東京法学院(現法政大学の前身)卒業して、神野家に商事経営、

  資本の運転、その他経済、財政一般の見習いとして住み込む

 ・初代金之助(三十七)、神野悦三郎(二十七)、竹田鋹太郎(二十四)、富田吉太郎(十五)、浅野精一

  (十四)、伊藤栄治郎(二十三)、川瀬新太郎(二十三)が関東視察団

 ・神野本店の六軒分店が作られ、従弟の神野悦三郎は主任となる

 ・草間小学校が尋常小学磯辺学校に改称する

 ・木曽三川の完全分流を目指して、明治政府は巨額な予算を投じた河川改修工事を開始した

 ・服部長七、広島県佐伯郡の新田工事を行う

明治二十一(一八八八)

 ・十五日、毛利新田開拓起工式(難工事のため、愛知県庁が主体で工事を行った)

 ・月、毛利による牟呂用水工事完了

 ・日、東海道線の大府と浜松間の開通により豊橋駅が開業、名古屋と鉄道で移動が可能となった

 ・十二三十一日、牟呂用水工事に対し、豊川筋水運業者が訴えて毛利祥久と協議となる

 ・十二月、代重助重慶十六歳、名古屋商業学校を中退する

 ・神野・富田家は三重県度会(わたらい)郡立の製糸工場の譲渡を受け渡会製糸場として経営、その製糸場

  の主任として採用されたのが山村作左衛門(番観音寄進者)である 

 ・シャム貿易のため、神森商会シャム出張所をバンコックに設立、社員の 野々垣直治郎を派遣する

 ・神野家が後の圓龍寺住職となる宮部圓成を欧米に派遣してヤソ教の研究をさせる

 ・服部長七、広島県県下の海岸護岸工事を行う

明治二十二(一八八九)

 ・月、牟呂用水訴訟は水運業者に浚渫費七千円を払うことで和解、月に勝間田知事への訴えは取り下げ

 ・取水口の近い松原用水関係者からも牟呂用水の反対が出ないよう、種々の取り決めを交わした

 ・日、後の神野新田の幹部となる石部太之助が生まれる

 ・二十五日、代重助重慶十七歳、三井銀行東京支店に入行する

 ・月発行の書籍に、服部長七が東京銀座で服部販売店(人造石製造販売)を営んでいる情報がある

 ・日、宮部圓成が井上円了に同行して洋行、横浜港から出港(初代金之助が支援している)

 ・月、神野三郎十五歳、尾張小学校付属科卒業

 ・日、毛利新田、第回目澪留は不成功、七月七日の再澪留で成功

 ・十四日、毛利新田が破堤する

 ・二十日、毛利新田堤防再構築

 ・日、豊橋町制を施行

 ・十一十四日、毛利新田、第次澪留完了

 ・十一月、服部長七、苦難のヶ月を要し宇品港が完成した、この工事中の資金難時に品川弥二郎からの

      紹介で初代金之助からの資金援助を受けた

 ・十二日、毛利新田、第次澪留完了

 ・十二二十日、毛利新田の工事が愛知県庁から毛利に移される(名義を岩本賞壽から桑原為善へ)

 ・藤田伝三郎(藤田組)に児島湾干拓地の許可がやっと出るが、地元の反対、不況、大洪水で工事始まらず

 ・服部長七、東京で開催の第回内国勧業博覧会土間のタタキ工事を行う

 ・服部長七、広島県佐伯郡の末広新田の工事を行う

明治二十三(一八九〇)

 ・十一日、初代金之助、神野富田両家保全のため家政要則を制定し、両家の資産を合同・共有と定めた

 ・日、毛利新田工事の監督を愛知県庁から毛利へ返還される、桑原為善氏が監督となる

       (愛知県庁が主体となった工事の難しい部分が完成したので、管理監督が毛利に戻された)    

 ・月、初代金之助・としの三女あさが生まれる

 ・月上旬、宮部圓成が洋行から帰国(井上円了は二十八日に帰国)

 ・月、毛利新田、再築の堤防工事完成

 ・日毛利新田、九四町歩を民有地として払い下げを受け、牟呂用水を新田に引水

 ・神野金之助が伊勢小原の原野を買収する

 ・毛利新田に真宗大谷派豊橋別院説教所を現在の神野新田のネノ割あたりに設ける

 ・毛利新田に養魚事業が始まり、毛利と養魚業者と賃貸契約を結ぶ

 ・服部長七、御料局佐渡支庁相川町倉敷地護岸工事を行う

明治二十四(一八九一)

 ・三十一日、毛利新田新開墾地免租年期を出願

         (民間資本で作ったので、かかった経費を税金免除で補填してもらう申請)

 ・十一日、神野・富田両家の家政要則が施行される、この中にある代表親族の連名の中に池田鋹次郎

        (第二十二番観音寄進者)の名もあり、初代金之助の妻「とし」の実家関係筋と思われる

 ・十四日、毛利新田は明治二十三年より向こう五十年間の免租の指令が出る(五十年間税金免除)

 ・九月日、紅葉屋店則が改訂・施行され、神野本店が両家含む資産管理をする

       (神野富田両家の資産管理会社、後の神野富田殖産/神富殖産から神富殖産株会社へと)

 ・二十八日、毛利新田、濃尾大地震で堤防崩壊、地盤の亀裂が甚だしい、応急処置で対応した

 ・十二十九日、神野三郎の父、竹田長蔵(晨正)の百人一首一夕話が浅見文昌堂等から出版されるが、

         浅見文昌堂の店主が浅見鉦太郎(第番観音寄進者で明治二十九年の神野新田完工式の

         来賓の一人)

 ・代重助重慶、三井銀行本店を退行し、神野・富田両家共同事業の代表者となる

 ・毛利新田、稲の植付三五〇町歩、小作者一〇〇戸余り

 ・明治十二年頃~明治二十四、五年頃までの神野分店の伊勢の事業の担当が西田善助(第二十一番観音

  寄進者)らである

 ・服部長七、御料局名古屋熱田白鳥貯木場樋門工事を行う

明治二十五(一八九二)

 ・春、毛利新田の小作人の移住が増え一三戸余、五七余町歩の植付が可能となった

 ・月 、渥美郡牟呂村立牟呂尋常小学校に改称する

 ・月、初代金之助四十四歳、三重県一志郡天白村に神野分店(後の六軒出張所)が作られ、小作地を統括

 ・月以前、岩本賞壽は愛知県庁土木課を辞職し、毛利新田の現地取りまとめとして働いている

       (詳細時期は不明だが納屋橋の改修工事トラブルで愛知県庁を辞職し毛利の下で働く)

 ・日、毛利新田が台風で前年の地震で傷んだ所から破堤・浸水し多数の死者を出す

 ・十二月、毛利氏は毛利新田の開拓を諦め、新田名義を桑原為善に移して売却を決する(工事費は予算が

      十二万六八一円、度重なるトラブルで四十万円、第百十国立銀行の資本のニ/三に達した)

 ・牟呂大西の芳賀保治(第番観音寄進者)が二十間川で葦に海苔の付着を発見(三河海苔発展の起源)

 ・毛利新田の堤防崩壊で多くの住民が絶望して毛利新田を離れた

 ・毛利新田が壊滅のため、大谷派豊橋別院の説教所を牟呂村の本村地内に移す(具体的な場所は不明)

 ・尋常小学磯辺学校が磯辺尋常小学校に改称する

 ・服部長七、生野銀山貯木池を人造石工事を行う

明治二十六(一八九三)

 ・日、初代金之助四十五歳、長男・金重郎(後の代神野金之助)が生まれる

 ・春、初代金之助、毛利新田購入検討で現地視察する、資金面は三井銀行東京支店で修業を終えた

  重助重慶が算出・検討し、開拓可能であると判断した

 ・月、東本願寺の鐘楼堂の工事着手(石垣は七代金平と妻のマツ、上物は初代金之助の寄進)

 ・月、神野三郎、大谷派普通学校普通科卒業

 ・十五日、初代金之助、毛利新田と用水に関する全権利を千円で買い取る(買取人名義は初代

  金之助、毛利新田の移譲契約書の毛利側保証人が岩本賞壽になっている)

 ・十六日、安田財閥の初代安田善二郎が、一日違いで毛利新田の買い付けに来たとの情報がある、

        安田が購入して新田開拓していたら、安田新田になっていたかも

 ・月、高等科を設置し、渥美郡牟呂村立牟呂尋常高等小学校に改称する

 ・この頃、神野新田の設計検討、岩本賞壽(規模と形状は継承、人造石は信頼しない)も技術者として参加

      している、設計は毛利新田と同じ形状だが堤防は大きくして人造石で覆うことで決定した

 ・月中旬、初代金之助、服部長七(第三十番観音寄進者)と宇品港、三津浜港の人造石を視察

 ・月上旬、神野新田開拓工事着工、神野三郎も工事に専任従事(新田事務所に住む)

 ・月、上遠野富之助が名古屋に移り、名古屋商業会議所の書記長となる

 ・月、洪水のため牟呂用水堰埭が破壊、加茂村が水を独り占めしたので法的手段を匂わせたら謝ってきた、

     後日に賀茂用水をパイバスする黒川治愿の新用水計画を持ち出すと、三村のわがままは無くなった

 ・十六日、第回目澪留工事、十七日に回目、無事成功する工事の指揮命令は服部長七司令、補佐

        として岡田伊助(第十三番観音寄進者)・森初太郎(通称初太郎、正式には森新左衛門で第

        十五番観音寄進者)・山本某・外十数人があたった

 ・月、初代金之助、養魚業者に養魚事業を請け負わせる

 ・新田内側八十町歩に水稲を植え、約千俵の収穫を上げる

 ・十一月、堤防での囲い込みもでき、満潮時に上間を余すまで築堤が進んだ

 ・十一月、新田内の用水配置・地均し工事を開始

 ・東本願寺の鐘楼堂石垣(金平夫妻名義)が伊勢の石工の黒田九兵衛(第番観音寄進者)により完成

  ◦黒田九兵衛は明治三十四年に江西神野邸に代金平・マツの寿碑も作成している

 ・服部長七、上野動物園石塀を人造石工事で行う

明治二十七(一八九四)

 ・月、初代金之助四十六歳、商業銀行監査役に挙げられる

 ・月、牟呂用水路修築、引水できるようになる

 ・月、牟呂用水路、第一号樋門、井堰改良工事に着手、十二月完工

 ・月、初代金之助、鉄砲町に設立された商業銀行の監査役に就任する

 ・二十五日、愛知馬車鉄道(後の名古屋電気鉄道)が名古屋に設立

 ・新田の土地が広すぎ、地均工事のスビートアップを図るため、トロッコとレールを購入

 ・月、神野新田の地均し済みが約三百町歩、水稲の植付

 ・月、初代金之助、東本願寺の財政整理にあたる

 ・二十五日、日清戦争が始まる

 ・、東本願寺の鐘楼堂の立柱式

 ・十一二十日、初代金之助、東本願寺本山講頭になる

 ・十二月十七日、吉前新田竣工

 ・名古屋の旧家グループで作る名古屋財界の原形となる九日会が発足する

 ・初代金之助が寄進した東本願寺の鐘楼堂が完成する

  (石垣は金平夫妻で上物は初代金之助の名義で寄進、工事は三重の石工の黒田久兵衛)

 ・神野新田大手堤防のみ尺(八.二m)まで嵩上げできた

 ・神野新田移住者戸数二五〇戸余、人口一、三八名余

 ・服部長七、播磨鉄道線路工事を行う

明治二十八(一八九五)

 ・日、初代金之助四十七歳、神野新田に伊勢大廟皇大神宮の御霊を奉妃することを決定

       (初代金之助と牟呂八幡宮の森田宮司が伊勢神宮に参拝して御分体の御鏡を申し受けた)

 ・日、伊勢大廟皇大神宮の御霊を牟呂八幡社に仮鎮座式でお迎えした

 ・日、内宮とつの外宮としてつの神社(現在の牟呂神富神明社、五号神社、二会神社)を建立

       (神職は森田八幡宮詞官の兼務)

 ・月、神野新田の敬老会発足

 ・月、神野尋常小学校の設立を牟呂村と相談

 ・月、神野新田外部の大堤防が完成する

 ・月一日、第四回内国勧業博覧会に東本願寺の鐘楼堂の雛形が出展される(圓龍寺保存)

 ・十七日、日清戦争が終わる

 ・月、神野新田を正式名称とする案が関係する牟呂、磯辺、大崎の三村で可決

     (もし富田家や紅葉屋財閥が地元に広まっていたら、神富新田とか紅葉新田だったかも、しかし、

     契約者名義は神野金之助の個人名であった等の理由で、神野新田になったと推察)

 ・月、神野新田、三十三体の観音様を安置する

 ・月、堤防法先の波浪による浸食(えぐれ)を捨石と砂砂利による補強工事を開始した

 ・月、初代金之助、東本願寺会計加談役に推される

 ・月、リノ割に火葬場を設ける、三十一年にマノ割、明治三十九年にレノ割に移転の申請

     (リノ割らマノ割は塩田を開始のため、マノ割へは養魚場を作るためと思われる)

 ・月、牟呂用水を利用して南北設楽郡木材商が薪材の流下を始める(以前は豊川を小舟で運搬していて

     効率が悪かったのと、増水時の流失が多かったが。牟呂用水に流せば確実に下流に届く)

 ・月、牟呂用水の大海津に豊橋電灯の発電所を作る(水量不足で火力と併用の珍しいタイプ)

 ・月、伏見にある廃寺となった圓龍寺の寺籍を神野新田に移設出願をする(明治二十九月認可)

 ・神野新田、五五〇町歩に植付て、八、〇〇〇俵の収穫があった

 ・初代金之助・神野三郎が小作人の移住勧誘に動く(田原から六〇戸の移住につながる)、神野清児は

  (第三十三番観音寄進者)は江西を中心とした地域へ勧誘に動いていた

 ・服部長七、台湾で基隆・淡水両港の改築

明治二十九(一八九六)

 ・日、豊川鉄道設立

 ・日、愛知銀行設立

 ・月、神野尋常小学校(圓龍寺の東側の公民館がある当たり)設立、月開校

 ・十五日、神野新田の成工式、神野新田紀徳碑建設式を挙げる

 ・月、神野尋常小学校が開校(芳賀保治が管理者で登録されている)

 ・十九日、愛知馬車鉄道が名古屋電気鉄道と改称

 ・月、牟呂用水が一応完成、牟呂用水記念碑が八名郡に建つ

 ・八二十一日の東京の読売新聞の朝刊に、服部長七の銀座の建物の「屋上庭園」の記事が書かれている

 ・二十七日、明治銀行が設立、初代頭取は奥田正香 (神野金之助も設立メンバーの一人)

 ・三十一日、京都伏見の圓龍寺を神野新田移転が認可される、別徐音地の寺格を授かる

 ・十一月、神野三郎・大工の大橋竹次郎(第二十六番観音寄進者)が考案の宇利川自在運転樋が完成

 ・牟呂村の芳賀保治、海苔養殖の研究を始める

 ・神野富田両家が保有する愛知・岐阜・三重の三県と神野新田の面積は酒田本間家と並ぶほどだった

  (酒田本間家の保有が最高で三千町歩だった、神野富田両家は神野新田だけでも千百町歩あった)

 ・江西の神野邸にあり、濃尾地震で壊れた鵜多須門の扉(扉は破損を免れた)を神野新田事務所移設した

 ・神野新田開拓費用は七〇万円~九〇万円と推測されている

  (長七の築堤や樋門の人造石工事だけで二一九、五〇〇円の支出であったことが資料で残っている)

 ・開拓資金は代富田重助が調達したが予想以上に苦労し、遠く横浜正金にも及んだとある

 ・服部長七、神奈川県横須賀市の若松海岸埋め立て工事

明治三十(一八九七)

 ・月、神野新田リ、ヌ、ル、ヲの割で製塩業が開始される(経営として成り立たず明治三十五年に廃止)

 ・日、圓龍寺が神野新田へ移転、仮堂宇で遷仏式が行われる

 ・月、牟呂用水の改築工事開始

 ・月、代重助重慶二十五歳、商業銀行監査役に就任

 ・日、代重助重慶、初代金之助長女すずと結婚

 ・十五日、豊川鉄道、吉田-豊川間が開通する

 ・夏、初代金之助四十九歳、中国・四国の製塩地を巡視

 ・月、初代金之助、日銀総裁に招かれて上京、国債発行について建議する

 ・十二十六日、圓龍寺に本山より山号「神富山」(しんぷうさん)を付与される、山号をソノ割の神明社に

         名付けられたと考えられるが、神明社はしんとみ神明社であることから、山号を授かった時

         はジンノ姓であったはず

 ・神野新田、五五〇町歩に植付け、入植者は二五〇戸となる 

 ・牟呂村の芳賀保治、六条潟に海苔養殖場を設ける

 ・神野新田で海苔の栽培が始められる

 ・服部長七、神奈川県浦賀の館浦防波堤築造工事

 ・服部長七、四日市築港工事を行う

 ・服部長七、大府の砂川樋門、石箇瀬川樋門工事を行う

 ・服部長七、緑綬褒章を拝受

 ・片山可造(番観音寄進者)は服部長七の豊田市の枝下用水の権利売買にも係わる

明治三十一(一八九八)

 ・日、初代金之助五十歳、明治銀行の代目の頭取に就任

 ・月、代金平の米寿の祝いが催される

 ・春、塩田技術者を百名ほど雇い、塩田も三〇町歩に拡大した、結果的に成果は上がらなかった

 ・月、大雨のため牟呂用水十数カ所破損、塩田も土地と建物に被害

 ・十五日、神野三郎、りきとの結婚のため、神野家との養子縁組離縁し竹田に一旦復籍する 

 ・月、初代金之助、内閣より塩業調査委員を命ぜられる

 ・月、暴雨出水のため牟呂用水破損、年末から翌年にかけて牟呂用水全域の改善を行う

 ・月、月と月の暴風雨で塩田の被害甚大

 ・十一日、名古屋に市内電話が開通する

 ・十一十八日、愛知県の銀行関係の親睦団体の愛友会が発足、初代金之助、代重助重慶も加盟

 ・十二月、明治貯蓄銀行が設立される 

 ・神野新田、神野報徳会が設けられる

 ・花田、吉田方、牟呂各村へ牟呂用水の分水希望の申し込みあり

 ・信用組合の方針を立案

 ・リノ割の火葬場は塩田のために廃止して、マノ割に作る

  (明治三十九年十月に火葬場の出願が出ているが、レの割への移転のことと推測される)

 ・服部長七、名古屋築港工事を起

明治三十二(一八九九)

 ・月、牟呂用水改築工事完成

 ・二十六日、竹田三郎(二十五歳)、神野りき(十八歳)と入夫婚姻(神野姓)、新田事務所内の

  家に住む

 ・十二月、初代金之助五十一歳、愛知県農会商議員になる

 ・初代金之助、尾三農工銀行監査役になる

 ・神野新田、小作米品評会を設けて米質改良、俵装改善を図る

 ・藤田伝三郎(藤田組)に児島湾干拓地の工事がやっと始まる

 ・圓龍寺の梵鐘を鋳造し鐘楼を新築

 ・圓龍寺の本堂他の材料集めを開始、巨大な材木の運搬に苦慮

 ・服部長七、服部発電所、水路工事を行う

明治三十三(一九〇〇)

 ・十六日、代重助重慶二十八歳、名古屋電気鉄道監査役に就任する

 ・二十六日、品川弥二郎五十八歳亡くなる

 ・月、代重助重慶、商業銀行頭取に就任する

 ・神野新田消防組整備が始まる

 ・神野新田に草が生え始める(完成後年で、塩がやっと抜けて来た証拠)

 ・神野新田地均し工事に着手する

 ・木曽三川分流締め切り工事のため、江西の東にあった木曽川支流の佐屋川が埋め立てられ廃川となる

 ・神野尋常小学校の生徒数がやっと増加、学校の設備が充実した

 ・服部長七、岩津天満宮再興を受諾する

 ・服部長七、明治用水頭首工や樋門工事を行う

明治三十四(一九〇一)

 ・月、神野新田圓龍寺、本堂、鐘楼堂、山門、書院、庫裏に着工

 ・月、牟呂、吉田方、花田の村は牟呂用水三村用水普通水利組合設置し、分水工事に着手する

 ・十五日、初代金之助五十三歳、江西に父代金平夫妻の寿碑を建立する(石工、黒田九兵衛による)

 ・月、神野新田圓龍寺、鐘楼堂完成、鐘供養の指揮を行う

 ・月、神野新田、北組、中・南組、五郷、二回で消防組いろはに四組が設けられる

 ・日、代重助重慶 、すずの長男、重郎(後の代重助重信)が鉄砲町で生まれる

 ・十六日、圓龍寺本堂建築のため地鎮祭を行う

 ・月、初代金之助、尾三農工銀行取締役に就任 

 ・月、豊橋新聞創立

 ・産業組合の法律ができ発布される

 ・新田の地力の衰えが目立ち、神野三郎が堆積肥料を推奨した

明治三十五(一九〇二)

 ・春、神野新田信用組合設立の出願

 ・月、神野尋常小学校を休校とし牟呂小学校に合併する、新田住民の姉弟のため年に百円の補助をする

 ・月、初代金之助東本願寺本山の相談役となる

 ・二十二日(二十三日説あり)、神野新田報徳会を改組して神野新田信用組合が発足、初代理事長は

  神野清児

 ・十三日、神野新田圓龍寺、本堂立柱式が行われる

 ・神野新田の製塩業を廃止決定、塩田は水田に転換されることになる

 ・濃尾方面からの移住者が多くなる(木曽三川整備で農地が無くなった人たちが移住してきた)

 ・神野新田小作米調整奨励として、掟米俵に枚の福引券を交付

 ・上下牟呂用水普通水利組合結成

 ・この頃には、麦・大豆・種々野菜の収穫増、里芋・西瓜・瓜は新田の特産品として有名になっていた

 ・収穫後の百町歩弱の冬策より、麦・菜種・馬鈴薯の作付けを始める

 ・各樋管所在地に倉庫を建て、堤防修理部材を補完した

 ・服部長七、名古屋港築港を完工する

明治三十六(一九〇三)

 ・春、神野新田の十七歳~三十歳未満で水火災予防組合を編成する

 ・十六日、代重助重慶、名古屋商業会議所議員に就任する

 ・十五日、圓龍寺本堂上棟式が行われる

 ・日、第五回内国産業博覧会(三月一日~七月三十一日、大阪市天王寺今宮)で神野新田開拓で

       名誉銀杯を賜る

 ・月、株式会社商業銀行が大阪北濱銀行に買収されることが決定した

 ・月、代重助重慶、株式会社商業銀行の代表清算人となる

 ・日、神野三郎二十九歳とりきの長男、太郎が生まれる

 ・塩田を廃止して水田とした

 ・生活難で神野新田より転住して出ていく者が多い

 ・神野新田号辺で反半の養鰻池を築き、神野三郎と奥村八三郎が養鰻の共同経営を開始

 ・神野新田の水火災予防組合が発足

 ・牟呂用水三村用水普通水利組合、分水工事竣工

明治三十七(一九〇四) 

 ・二十二日、神野三郎、豊橋電灯監査役に就任する

 ・日、日露戦争起こる

 ・十五日、神野新田圓龍寺、遷仏供養が行われる

 ・二十日、初代金之助が前年の名誉銀杯を記念し、神野新田紀事(七月十四日印刷)を発刊

 ・二十五日、神野三郎、豊橋電灯監査役を辞任する

 ・日、初代金之助、貴族院議員となる

 ・年末、初代金之助が東本願寺の招きで、トラブルを心配した母のマツも京都に同行した、その京都で

  宿泊した旅館でマツが転倒し一時起居困難となった

 ・稲の植付が大変で「御義理植え」だったのを、目の細かい「正条植え」を奨励し収穫量の向上を図った

 ・服部長七、六十五歳で一切の事業から引退する

明治三十八(一九〇五)

 ・日、(新田誌には三月十六日)神野本店から合名会社神野富田殖産会社を設立(資本金三〇

       五千円)して両家の資産管理を引き継ぎ神野新田を所有し運営、三郎は労務出資社員

 ・十七日、神野三郎が分家届(本籍を名古屋鉄砲町から牟呂松島へ移転、豊橋神野家の始まり)

 ・三十日、初代金之助の母マツが前年末の京都での怪我が元と思われる病で、八十八歳で亡くなる

 ・二十九日、初代金之助の妻、としが四十二歳で亡くなる

 ・日、牟呂と吉田方が合併し牟呂吉田方村が発足

 ・月、神野新田信用組合を無限責任より有限責任に改める

 ・月、神野・富田両家の家訓が配布される 

 ・月、日露戦争が終わる

 ・十二二十八日、父の代神野金平が九十五歳で亡くなる

明治三十九(一九〇六)

 ・日、初代金之助、勲四等を叙せられ旭日賞綬章を授けられる

 ・十四日、代重助重慶の最初の妻、すず(初代金之助の長女)が二十九歳で亡くなる

 ・月、神野新田事務所、神野三郎述の「小作人心得書、農事奨励法」が発行され、農事に関する

     ほとんどの指示が通達された、地力の衰えを補うため自給肥料も始められた

 ・月二十九日、初代金之助、貴族院議員を辞職(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950319/8)

 ・月、神野新田圓龍寺、住職に宮部圓成が着任する

 ・月三日、火葬場の出願、養魚場を作るためか、マの割からレの割に変更の出願と推測する

  (地図で確認できている一番古いのは昭和年で、レの割に記載がある)

 ・十二二十五日、代重助重慶は名古屋電気鉄道監査役を辞し、取締役に就任

 ・十二月、初代金之助は鉄砲町邸で富田家と同居してたが、南久屋町の新邸に移転する

 ・明治十九年に開拓した菱池新田約五三町歩を内藤弥作に譲渡

 ・牟呂村が牟呂吉田村となり、中組、北組、南組は合併し字三郷となる

  (三郷と五郷の呼び名は以前より使われていた)

 ・神野新田に農事試験場三郷公民館辺りと推測する)と請願巡査駐在所(初代巡査:鈴木重徳)を設置

 ・神野新田、共同苗代町歩をヶ所に設置し、堆肥奨励規定を定め自給肥料増産を図る

 ・神野三郎、神野新田信用組合、第二組合長になる(初代組合長は神野清児)

 ・上牟呂用水事務所を八名郡役所に、下牟呂用水事務所を渥美郡役場内におく

明治四十(一九〇七)

 ・日、東本願寺本山再建のため神野・富田共同で三万円の寄付を決定

 ・十三日、豊橋蚕糸周旋株式会社に神野三郎が取締役で就任

 ・日、伊勢地方の小作地産米の第一回品評会を伊勢六軒劇場で行う、初代金之助、代金之助重孝、

       三郎、四代重助重慶が出席(この記述の資料に重慶は初代金之助を父と呼んでいたとある)

 ・十九日、名古屋電気鉄道評議員会議に後藤増平(第番観音寄進者)が名古屋電気鉄道の取締役と

        あるが、初代後藤増平(ますべい)である

 ・日、明治銀行豊橋支店創設

 ・十四日、神野家富田家共同で伊勢桑木谷の山林九〇〇町歩を買い入れる

 ・日、初代金之助、大木豊子(伯爵、大木遠吉の姉)と結婚

 ・日、妻豊子が里開き(東京へ里帰り)で一車貸切りで総勢十一名が上京

 ・二十八日、浜名湖の舞坂(北川氏の別荘のよう)に海水浴

 ・二十九日、十八時の舞坂発で豊橋へ、初代金之助列席で重助が新田の店員に賞与を渡す

 ・三十日、初代金之助、重慶、三郎、店員の篠田五十次郎が同行し新田を巡回、

        一号堤防で破損数か所発見し修理を決定、当時の幹部は石部太助・石部太之助・渡辺増次

        ・岡田新蔵らほか筒井・篠田・柴田が三郎の日誌に出ている

 ・二十七日、名古屋の覚王山・四観音道の山林約二千坪を買い入れる、半分は後に明治銀行の弁済の

         ため売却される

 ・二十八日、報恩講と圓龍寺で代金平の法要、四代重助重慶も出席

 ・二十九日、四代重助重慶ら、神野新田の塩田や作物など巡視

 ・十二日、代重助重慶が初代金之助女、あさと再婚

 ・神野新田は竈改良、牧畜講と船講の結成、誘蛾灯とメイ虫除去が本格化

 ・神野新田信用組合に購買部を設ける

 ・明治銀行が熱田銀行を吸収合併する 

 ・初代金之助、日本赤十字社有功章を送られる

 ・圓龍寺の寺格は上から三番目の「国巡讃」で、三河では最高位である(現在は寺格制度は使われてない)

明治四十一(一九〇八)

 ・日、伊勢に「神富(ジンプ)農会」発足、その中の説明内の神野富田殖産会社のルビ「かみの」と

       あり、この時点で既にカミノ姓になっていた可能性があるカミノに関する番古い情報)

 ・十六日、福寿生命保険会社設立、社長は初代金之助、専務は代重助重慶、開業は

 ・二十日、初代金之助、神野悦三郎、代重助重慶が伊勢桑木谷を視察(二十五日まで)

 ・十一日、福寿生命代理店、神野三郎開業広告(新潮報)

 ・十三日、圓龍寺にて先代の代富田重助重政の三十三回忌を営む(初代金之助、代重助重慶列席)

 ・十四日、前日に続き法要、夕方試験場や付近を視察

 ・十五日、新田の祭礼だが朝から雨

 ・十六日、初代金之助、代重助重慶は樋門など巡視し、十七日に名古屋に戻る

 ・十二日、代重助重慶、名古屋電気鉄道会長に就任

 ・十二二十四日、豊橋瓦斯出願(奥田正香、神野三郎ら)

 ・神野新田に請願巡査を置く、初代巡査は鈴木重徳氏

 ・神野新田に人工養鰻の計画を立て、養魚場が設置される

 ・神野新田、高師村に大十五師団が設置され軍馬厩肥の払い受ける(運搬には小作人に奨励金)

 ・生活苦から、新田内の小作が土地を返還して労働方面に転向するものが続出

明治四十二(一九〇九)

 ・一月二十九日、豊橋瓦斯再出願

 ・二十九日、名古屋電気鉄道が会長・専務制→社長・常務制になり、会長の代重助重慶が社長

 ・二十五日、豊橋瓦斯経営許可

 ・三十一日、狭間尋常小学校開設(神野三郎が多くかかわる)

 ・月(月説もある)、伊勢の桑木谷に植林事業を開始する

 ・月、伊勢の物不言(ものいわず)山林約一〇〇町歩購入、初代金之助、代重助重慶が現地踏査する

 ・月、福寿生命保険東京支店を日本橋区宗十郎街に設置

 ・十五日、神野三郎、福寿生命保険の監査役就任

 ・十六日、初代金之助が渡米実業団で名古屋を出発(豊橋駅で新田関係者数百人が見送った)

 ・十七日、明治天皇による渡米実業団の午餐が浜離宮にて催される

 ・十九日、初代金之助は上遠野富之助らと渡米実業団が横浜を出港(十二月十七日横浜に帰国)

 ・二十一日、初代金之助を見送りに上京した四代重助重慶が帰りに豊橋で下車、例年通り新田関係者

         と付近の有力者との会食会

 ・日、豊橋瓦斯創立、神野三郎は常務取締役に就任

 ・二十八日、代重助重慶が名古屋商業会議所商業副部長に就任

 ・月、神野新田二回地区は耕地整理第一期一七七町歩に着工、完成は一九一六

 ・十一日、東本願寺勅使門を神野富田両家で寄進にあたり、起工式を行う、完成は一九一一

 ・十二月十七日、渡米実業団が横浜に帰国

 ・神野新田の養魚場一五町歩

 ・神野新田、青年会を組織と三郷、五郷、二回に支部を置く

 ・神野新田、青年会場建設夜学会を開く

 ・神野三郎家、新田事務所内にある家から引っ越し(移転先確認中)

 ・初代金之助は、渡米実業団で渋沢栄一と親交を深めることになる

  (神野金之助重行の序と初代金之助頌徳碑の題字は渋沢栄一によるもので親交の深さが見える)

明治四十三(一九一〇)

 ・十一日、豊橋瓦斯営業開始

 ・十二日、浜松瓦斯営業許可

 ・四、渡米実業団の本「新洋行土産. 上巻」発行される、神野に「かみの」のルビがある

     (カミノ姓に関する番目に古い情報)

 ・日、神野新田養魚創立、神野三郎は取締役

 ・十二日、代重助重慶、滝定助と同行して欧米視察に出発、十一二十日に名古屋に戻る

 ・十八日、神野三郎、福寿生命監査役辞任

 ・二十三日、浜松瓦斯創立、神野三郎は常務取締役  

 ・二十四日、初代金之助、名古屋電気鉄道会社取締役に就任

 ・九、渡米実業団の本「新洋行土産. 下巻」発行される

 ・十一日、浜松瓦斯営営業開始

 ・十一二十二日、愛知電気鉄道創立

 ・十一三十日、代重助重慶が名古屋電気鉄道会社社長を辞して取締役に就任

 ・十二日、初代金之助、名古屋電気鉄道会社社長に就任する

 ・神野新田の開田面積は五八〇町歩となる

 ・初代金之助の従弟の宮原惟義が七十一歳で亡くなる

明治四十四(一九一一)

 ・日、福寿火災保険会社が設立、初代金之助が社長、代重助重慶が取締役、二十四日開業

 ・月、神野新田信用組合、有限責任神野新田信用購買組合と改称

 ・月、神野家・富田家が寄進の東本願寺使門の落成式

 ・三十日、代重助重慶が名古屋商業会議所工業副部長に就任

 ・日、福寿火災豊橋代理店、神野三郎開業広告(新潮報)

 ・二十九日、産業組合中央会より事業成績優良のため神野新田信用組合は表彰される

 ・十七日、三州倉庫設立、神野三郎は取締役

 ・月、伊勢犁谷(からすきたに)山林五〇〇町歩を買い入れる

 ・月、初代金之助、明治貯蔵銀行頭取に選ばれる

 ・日、神野三郎、豊橋市大字東八乙に移転

 ・月、前年設立の愛知電気鉄道との合併交渉が起きる 

 ・日、暴風雨で堤防・樋門は無事だったが倒壊家屋五郷は二三棟、三郷は不明だが相当数、養魚池

       ・作物・水路の被害多大

 ・日、初代金之助が 日 の被害を現地より重慶に報告

  三十一日、重慶が避暑(箱根?)の帰りに新田事務所に宿泊、翌日に新田視察

 ・二十五日、名古屋製陶所が創立され、代重助重慶は取締役に就任

 ・十一日、四代重助重慶が神野新田で、新田遊覧(鴨撃ち)を主宰し偉い人を招待

 ・神野新田農事試験場を廃止し農事奨励員三〇名を委嘱

 ・神野新田養魚池三六町歩新設

 ・三郷処女会設立

 ・服部長七、七二歳、岩津天満宮本殿の再興を果たす

明治四十五年・大正元年(一九一二)

 ・月、神野新田信用購買組合は新たに販売部を設ける

 ・二十七日、初代金之助、菱池新田と神野新田の貢献で藍綬褒章を授けられる

 ・三十日、児島湾干拓地工事の藤田伝三郎亡くなる、藤田組がそのまま事業継承する

 ・二十日、圓龍寺で宗祖六五〇回忌を催し、大谷派本願寺大谷光榮伯下向

 ・月、神野新田耕地整理第一期工事完成(二回地区一七九町歩)

 ・月、神野三郎、愛知県信用組合連合会の理事就任

 ・月、 大暴風雨の被害甚大、大稀有の大凶作

 ・十五日、神野三郎著の神野新田誌が刊行

 ・十一日、代重助重慶、戴恩会(尾州徳川家ゆかりの人の会)の理事になる

 ・十一二十八日、代重助重慶、東本願寺維持財団参議員になる

 ・神野新田は農事指導員を設け先進地の視察に派遣

 ・圓龍寺の山門建立

 ・新渡戸稲造博士ら新田を視察

 ・軍隊の厩肥人糞尿の払い下げを受け、小作人に実費の一/三で売り渡した

 ・神野三郎の伯兄、竹田鋹太郎が蒲郡海岸の塩田を買収

 ・藤田組が児島湾干拓地の区と区の内の一、二三〇を藤田農場として経営、神野新田が一、一〇〇

  ㏊なので面積では藤田農場が一番だが、時期は神野新田より十五年遅そかった、しかし個人で一、〇〇

  〇超える個人の新田開拓と経営は、日本では神野新田と藤田農場だけである

 ・木曽三川の分流工事が完了した

 ・神野新田誌には現在、住人戸数約二九七、人数凡そ一、六〇〇人と書かれている

 ・神野三郎伝にある神野三郎の言葉で「大正の初めころに本家がカミノに改称したので・・・」とある

  (カミノ姓に関する番目に古い情報)

大正二年(一九一三)

 ・十一日、石部太助を模範小作者として県表彰

 ・月、代重助重慶、葵町新宅の地鎮祭を行う

 ・十五日、財界に中央信託株式会社の議が起こり、代重助重慶が加わる

 ・月、香川県や愛知県知事が新田視察

 ・十四日、神野三郎、尾三連合会総代に当選

 ・二十七日、名古屋、東海両倉庫の両立協定を代重助重が仲介して円満妥結をみる

 ・月、初代金之助、財団法人愛知育児院理事となる

 ・七月一日、上遠野富之助が南久屋町の神野邸の北隣に家を建て、引っ越した

 ・十六日、代重助重慶、葵町新宅の上棟式を行う

 ・十七日、代重助重慶、名古屋市会議員二級選挙で最高点で当選する

 ・十一日、代重助重慶、名古屋市会副議長に就任する

 ・十二二十八日、代重助重慶、名古屋倉庫監査役に就任する

 ・ 初代金之助、東洋紡績会社監査役となる 

 ・神野新田は第二期耕地整理に着手

 ・馬蹄形手押除草機(コロ?)、足踏脱穀機を導入し、正条植えが定着した

 ・小作者の転退少なく、ようやく軌道にのる

 ・豊作にて二万三千俵の収穫

 ・堀抜井戸を各戸に設けるよう奨励(これまでは軒で本)

大正三年(一九一四)

 ・三十日、神野三郎、尾三連合会の役員に選出

 ・日、神野三郎、神野新田小作奨励法にかかる「二人会」を起草

 ・日、神野新田模範小作人の表彰を行う

 ・月、神野三郎、神野富田殖産退社

 ・日、牟呂用水、朝倉川掛樋竣工

 ・二十四日、福寿生命保険新社屋の地鎮祭を行う

 ・二十日、銀行取り付けで、明治、名古屋、愛知の銀行が休業

 ・日、名古屋電気鉄道焼討事件、責任を取り初代金之助や代重助 重慶が辞任を申し出る

 ・日、地元新聞「新愛知」に鉄道焼討事件が掲載される、地元の重大事件で地元の大企業の社長の

       神野金之助のルビが「かんの」となっており、地元新聞社でありながら苗字を間違えている

       が、ジンノと書いてないことから、この時点でカミノ姓であった証拠と考えられるが、一般

       には浸透してなくジンノと呼んでいたと推察されるカミノ姓に関する番目に古い情報

 ・二十六日、名古屋電気鉄道辞任の件、株主総会で慰留、再選

 ・神野新田信用購買組合発足(組合長・神野清児)

 ・二毛作普及し裏作として麦、菜種、馬鈴薯を収穫する、二毛作次第に増加

 ・米価安く(肥料代二八、掟米四六%、小作分二六%)で掟米減額のため小作騒ぐ

大正四年(一九一五)

 ・月、代重助重慶が鉄砲町総代になる

 ・二十四日、福寿生命保険本社新社屋の新築披露

 ・日、代重助重慶が名古屋商業会議所運輸部長に就任

 ・月、初代金之助、名古屋商工会議所特別委員に推される

 ・一五日、神野新田、神富神明社上棟式と遷宮式が行われる

 ・日、神野清児、日法要

 ・二十七日、神野三郎の三男の三男(後の代金之助の養子)が生まれる

 ・月、馬糞組合、十五師団の兵営付近に桜を植える

 ・十一日、竹田晨正、大正天皇より天盃を賜る

 ・十一日、初代金之助、正六位に叙せられる

 ・十一十五日、神明社の神殿改築御したので遷宮式を行い、同時に大典記念として神富神明社境内に

         杉桧の苗木を植える(本殿に向かって右が初代金之助、左が代重助の手植え)

 ・十二二十日、代重助重慶、名古屋電灯株式会社取締役に就任

 ・十二月、初代金之助、名古屋鉄道会社社長を辞し相談役に就任

 ・十二二十日、代重助重慶、名古屋電気鉄道社長に就任 

 ・十二月、富田家は鉄砲町から葵町の新邸へ移転

      (跡地は富田家が創業した会社の東朋テクノロジーの本社で現在も営業している)

 ・神野新田開田面積凡そ六〇〇町歩

 ・収穫の配分(掟米四三%、肥料代二五%、小作分三二%

 ・神野新田耕地整理第二期計画第一区一六〇町歩竣工、年末より第二区六六三町歩に着手

 ・紫雲英種子無償交付

 ・豊橋-田原間バス開通

大正五年(一九一六)

 ・日、神野三郎父、竹田長蔵(晨正)亡くなる、八十三

 ・二十六日、代重助重慶、六軒における伊勢小作米品評会第回記念式典に出席

 ・月、神野新田初代請願巡査、鈴木重徳が退職し、後任は伊藤新三郎

 ・日、前芝の醸造経営で政治家の故加藤六蔵の銅像が老津村で建設除幕式が行われる、

       (新田に当初入植した者が筵小屋で暮らすが、金が無いので古い筵を前芝の加藤六蔵の

        店で購入していた)

 ・月、有限責任神野新田信用購買組合を有限責任神野新田信用購買販売生産組合と改称

 ・五月二十七日、神野悦三郎が中耳炎を患い五十四才で亡くなる

 ・日、富田家が葵町への転籍を届け出る

 ・十一十九日、紅葉屋総番頭であった浅野甚七が七十七歳で亡くなる

 ・十二日、代重助重慶、矢作川水力電気株式会社の設立発起人になる

 ・十二月、初代金之助、明治銀行頭取を辞し、取締役に就任

 ・代重助重慶、木曽電気興業株式会社取締役に就任

 ・牟呂神富神明社の社格が村社となる

 ・大豊作で配分(掟米三十九%、肥料代十八%、小作分四十三%

大正六年(一九一七)

 ・日、代重助重慶 二女、てる子は初代浅野甚七の男の孝造と養子縁組して分家する

 ・三十日、代重助重慶、神野新田信用購買組合長に就任する

 ・二十三日、東海ペニー創立、神野三郎は専務

 ・十八日、名古屋製陶所の創立総会が開かれる、代重助重慶は監査役、上遠野富之助は副社長

 ・十二月、神野三郎、名古屋倉庫取締役就任

 ・神野新田凶作、収穫は約千俵、(掟米四六%、肥料代一六%、小作分三八%

 ・神野三郎、松葉町へ移転

 ・明治銀行は西尾、瀬戸両銀行を吸収合併

大正七年(一九一八)

 ・十五日、初代金之助、古希の寿筵を張る、これを機会にして財界から引退する

 ・月、神野新田の人造石樋門の耐久試験を五号樋門を分解調査し、堅固なことを確かめられた

 ・月、五号樋門の再築工事を施行

 ・二十五日、神富殖産会社が設立、代重助重慶 が社長、資本金五六万円、神野三郎は取締役に就任

  (八月十二日の節もある)                 

 ・二十日、全国で米騒動勃発のため、六軒の米倉庫から救助米を提供する

 ・十二二十二日、代重助重慶、愛知時計電機株式会社取締役に就任

 ・十二月、代重助重慶、名古屋電灯取締役を辞任する

 ・神野新田は大凶作

 ・神野新田連合青年団結成

 ・開田面積六二〇町歩

 ・代重助重慶、紅葉屋時代の書類を整理・表装・箱書きして、後代に伝えることと決めた

 ・スペイン風邪猛威をふるう

大正八年(一九一九)

 ・一月十九日、神富殖産会社臨時総会を開き、神野富田殖産会社と合併し、ともに解散、新しく神富殖産

        株式会社の設立を決議する、新会社発足は

 ・二十七日、初代金之助、神野同族会社の社長となる、神野三郎は取締役に就任

 ・日、代重助重慶、神富殖産株式会社社長に就任する

 ・十五日、代重助重慶、葵町の富田邸養和園の完成披露園遊会を行う

 ・十九日、東海ペニー譲渡

 ・十八日、服部長七亡くなる、七十九

 ・九月、代重助重慶、名古屋住宅株式会社創立発起人となる

 ・月、初代金之助の子、金重郎(後の代金之助)が栄子と結婚

 ・月、明治貯蔵を含む三行が合併し日本貯蓄銀行の発足が決定、重慶は準備委員に就任する

 ・十一二十八日、代重助重慶、名古屋住宅取締役に就任する

 ・十一月、徳川義親が尾張土地経営会社を設立、代重助重慶 は発起人と取締役に就任

 ・十一月、竹田鋹太郎、蒲郡海岸埋立地を岡崎の某に売却(明治四十五年に購入した塩田か?)

 ・神野新田耕地整理第二期工事を一時中止

 ・明治銀行は永井、起、焼津、田原商工各銀行を吸収合併する

大正九年(一九二〇)

 ・日、東三河製糸設立、神野三郎取締役に就任、五月六日に三河製糸と改称

 ・月、財団法人神野康済会が設立され、初代金之助が理事長となる

 ・二十五日、名古屋電気鉄道は名古屋市に軌道部の事業譲渡の契約に調印する

 ・神野新田に水産試験場(後の牟呂中学校敷地)を設けることを決定する

 ・神野新田豊作、しかし第一次大戦の影響で肥料代高騰、米価暴落、農家経営困難を極める

  (掟米三九、肥料代三一%、小作分三〇%

 ・この頃、康済会が旧神野邸横の宅地を拡張し、江西公会堂を立てた

大正十年(一九二一)

 ・十一日、神野新田、渡辺増次、模範小作者として県表彰を受ける

 ・月、初代金之助、愛知共済会理事となる

 ・十二日、伊勢六軒小作米第一五回品評会が行われ、この回を以て品評会は中止する

 ・日、代重助重慶、名古屋商業会議所運輸部長に再任される

 ・月、神野新田、農業倉庫の基礎工事始まる

 ・月、神野新田、自給肥料奨励制度を廃して大量生産による補助金制度に改める

 ・十三日、名古屋鉄道株式会社が設立される

 ・月、神野新田産業組合事務所をイの割番地の旧神野清児宅に移転、専務理事を置いて各種業務開始

 ・月、イの割に農林省水産講習所、養殖試験場設置に決定、翌年地鎮祭を行う

 ・日、名古屋鉄道株式会社役員選出、社長は代富田重助重慶、常務は上遠野富之助

 ・日、代重助重慶の母(代重助重政の妻)、ふさが六十八歳で亡くなる

 ・十一日、神野三郎、遠三電気鉄道代表者に就任、発起人となる

 ・十一日、悌愛株式会社設立、代表取締役に竹田鋹太郎が就任

 ・十一月、代重助重慶が明治銀行頭取に就任する

 ・十二日、豊橋川魚問屋設立、資本金二〇万円、社長は神野三郎

 ・十二月、神野新田三郷青年団が神野富田両家に初穂米を献上を決議する(実施は翌年十二月)

 ・神野富田両家が保有する伊勢地方の小作地で初の小作争議が起きる

  (神野新田と違って、元は自分の土地だが売って小作になった者が多いので不満を持ちやすい)

大正十一年(一九二二)

 ・十九日、危篤の初代金之助の特進申請電報が上遠野富之助・大三輪奈良太郎の連名で発信、電文に

        (カミノキンノスケ)とあり、初代金之助は亡くなる前から「カミノ」姓を名乗っていた

          ことになる (カミノ姓に関する番目に古い情報

 ・二十日、初代金之助が七十四歳で亡くなる(特旨を以て従位に叙せられる)

 ・二十五日、初代金之助葬儀に神野新田代表が十数名参列(新田より供餅俵)

 ・日、金重郎が代神野金之助重孝を襲名

 ・十五日、代重助重慶、福寿生命第二代社長に就任

 ・日、名古屋電気鉄道は市内線を名古屋市に譲渡

 ・二十七日、名古屋電気鉄道が解散

 ・日、日本貯蓄銀行が発足(明治貯蔵、伊藤貯蓄、丸八貯蓄が合併)

 ・日、代重助重慶 が日本貯蓄銀行取締役に就任

 ・十二月、神野三郎、浜松瓦斯社長に就任

 ・十二月、神野新田青年団、感謝初穂米献上を神野・富田両家に行う、後日返礼に鳥打帽を頂く

 ・神野新田共同苗代拡大し一三町歩

 ・畜力、風力利用の脱穀籾摺り普及

 ・国立水産試験場、現地地鎮祭執行

 ・第一回三郷敬老会を圓龍寺で開催

大正十二年(一九二三)

 ・二十二日、伊勢山本の山林で出火、二〇町歩が焼失

 ・日、神野新田イの割番地に長生病院を設け産業組合に譲渡、産業組合が経営する

 ・十六日、神野新田開拓三十周年祝賀式が行われる

 ・二十三日、代金之助重孝、名古屋鉄道監査役に就任

 ・月、福寿生命東京支店を日本橋に移す

 ・月、神野富田両家から初穂米献上の返礼として新田青年団一同に鳥打帽を贈る

 ・三十一日、明治銀行新築披露宴を行う

 ・日、関東大震災

 ・代金之助重孝、関東大震災で情報孤立を実感し放送局を作ることを思いつき、欧米を視察する

 ・十二日、関東大震災救援米、伊勢六軒から米七〇〇俵を名古屋港経由鉄道便で東京へ

 ・神野新田農業倉庫、支庫を五郷地区へ建設

 ・神野新田産業組合を神野新田信用購買販売利用組合に改称

 ・収穫(掟米三七.五%、肥料代一四.七%、小作分四七.八%

 ・神富神明社、社務所が新築寄進される

 ・神野新田資料館の初代金之助のパネルに「大正十二年にカミノに改称」とあるが、代金之助に

  代替わりした時を改称時期としたようだ

大正十三年(一九二四)

 ・日、名古屋無電放送(日本初の商業放送出願)が設立、総代が代金之助、代重助が役員

 ・月、初代金之助、三回忌法要を圓龍寺で営む

 ・十七日、豊橋電気鉄道創立、神野三郎相談役に就任

 ・月、初穂米献上の返礼として青年団が両家より招待され馳走を受ける

 ・十五日、初代金之助の銅像除幕式が江西公会堂前で行われる

  (銅像は昭和十八年三月金属類回収令により戦中供出のまま、で復旧されず) 

 ・二十一日、代重助重慶、名古屋倉庫監査役を辞し、取締役に就任する

 ・日、神野新田で養鱒試験が行われる

 ・8月頃、明治銀行頭取を務めた大三輪奈良太郎が亡くなる

 ・十二日、名古屋ロータリー倶楽部が発足し、メンバーに代金之助重孝が加わる

 ・神野新田、籾の火力乾燥奨励、籾摺りは土臼を改めて木臼とするものが増加

大正十四年(一九二五)

 ・日、代金之助重孝主導により、名古屋放送局設立総会が開かれる

       (代金之助重孝は、昭和二十年に最初の民間放送局の中部日本放送の立ち上げも主導)

 ・日、代金之助重孝らの申請により、名古屋放送局が認可される(日本初)

 ・十七日、名古屋放送局役員選出、理事長に代金之助重孝、理事に代重助重慶が就任

 ・二十一日、神野三郎、名古屋放送局評議委員に選任される

 ・二十八日、尾三農工銀行改め愛知県農工銀行の取締役に神野三郎が就任

 ・二十四日、明治銀行は近江商業銀行を吸収合併する

 ・日、名古屋鉄道が犬山遊園地を開設、造園と建築物は代重助重慶の構想による

 ・日、代重助重慶、名古屋商業会議所交通部長に就任する

 ・十六日、豊橋商業会議所の副会長に神野三郎が就任

 ・二十五日、圓龍寺宮部正結婚式、神野三郎夫妻媒酌

 ・二十九日、名古屋住宅が事業完了して解散にあたり、代重助重慶が清算人となる

 ・日、代重助重慶、内閣指名により日本無線電信株式会社設立委員となる

 ・日、アサヒ蓄音器商会創立、神野三郎社長に就任

 ・十三日、神野三郎、馬糞組合の会長辞任、顧問に就任

 ・十五日、名古屋放送局が営業開始、代金之助重孝が放送の第一声を放つ

 ・日、代重助重慶、名古屋鉄道社長を辞任、後任は上遠野富之助

 ・月、代重助重慶、明治銀行頭取を辞任、後任は生駒重彦

 ・十一十五日、名古屋倉庫から分離して便宜運漕株式会社が設立、社長は代金之助重孝

 ・代重助重慶、日本赤十字社商議員となる

 ・神野新田は凶作

 ・渡辺増次、県自治会表彰

大正十五年・昭和元年(一九二六)

 ・十三日、東陽倉庫株式会社が設立され、代重助重慶、神野三郎、取締役に就任する

 ・三十一日、富田重郎(後の代重助重信)、慶応大学法学部を卒業する

 ・二十五日、富田重郎、神富殖産取締役に就任する

 ・十八日、神野新田二人会組織発表会を挙行

 ・二十日、中央信託株式会社創立発起人会が開かれる、発起人に 代重助重慶 が加わる

 ・日、尾陽土地経営株式会社が解散、代重助重慶が清算人となる

 ・二十日、名古屋放送局が解散の決議、東京と大阪と合併して日本放送協会(NHK)が設立、

        名古屋には東海支部が発足し、理事長に代金之助重孝、理事に代重助重慶、

           神野三郎評議委員

 ・十一十八日、神野太郎婚約(二代浅野甚七の長女の花子と)

 ・十二二十八日、中央信託株式会社が発足、代重助重慶は監査役に就任する

 ・神野新田汎用購買販売組合はタの割に第一用品雑貨販売所を建設

 ・神野新田大凶作(掟米二四.五%、肥料代二六.五%、小作分四九%)で地主の譲歩見るべきものあり

 ・伊勢大熊山の山林約二〇〇町歩を買い入れる

昭和二年(一九二七)

 ・十三日、神野太郎・二代浅野甚七の長女の花子と結婚、仲人は代重助重慶

 ・二十二日、代金之助重孝、名古屋鉄道取締役に就任

 ・十六日、神野太郎、三井信託入社

 ・二十七日、豊橋合同運送設立、神野三郎取締役に就任

 ・日、神野三郎、牟呂街道踏切、地下道実行委員長に任命される

 ・二十二日、重郎(後の代重助重信)、滝明子と婚約する

 ・十一十八日、勅使、山形侍従が神野新田を御差遣

 ・十二月、大正年に養子となった富田孝造一家は葵町の富田邸から東区白壁町の新宅に移転し分家となる

 ・神野新田に小型石油発動機による脱穀籾摺、誘蛾灯、螟虫くじ普及する

 ・豊橋市北島の淡水養魚研究所試験池を廃止、神野新田試験池に合併

昭和三年(一九二八)

 ・三十一日、尾陽土地経営株式会社の清算が完了する

 ・月、代重助重慶、御大典奉祝名古屋博覧会常委員に任ぜられる

 ・二十三日、代重助重慶、昭和毛絲が式会社設立発起人となる

 ・日、神野三郎母、ゑいが亡くなる

 ・日、重郎(後の代重助重信)、滝明子の結婚式(十五日披露宴、五月一日新婚旅行)

 ・十四日、初代金之助頌徳碑地鎮祭を行う

 ・十一日、神野新田に国立水産試験場落成式(場所は牟呂中学校の所)

 ・二十六日、名古屋鉄道社長、上遠野富之助が亡くなる、六十九

 ・日、代重助重慶、名古屋鉄道社長に再び就任する

 ・日、代重助重慶、昭和毛絲取締役に就任する

 ・日、明治銀行、犬山銀行を吸収合併する

 ・日、富田重郎(後の代重助重信)、名で上海を視察、三十一日帰朝

 ・二十六日、初代金之助頌徳碑基礎石を岡崎より列車で豊橋駅へ、牛一四頭と人夫五〇名にて牟呂に

         送り、翌日午前中に神明社に到着

 ・日、初代金之助の七回忌法要を圓龍寺で営む

 ・芳賀保治、海苔養殖普及の功績により、藍綬褒章受賞

 ・神野新田養魚池一〇〇町歩になる

昭和四年(一九二九)

 ・日、重郎(後の代重助重信)、明子の長男、和夫が生まれる

 ・二六日、代重助重慶、名古屋商業会議所交通部長に再任される

 ・十五日、神野三郎、豊橋商工会議所副会頭に就任

 ・月、福寿生命東京出張所が移転する

 ・十八日、豊橋瓦斯創立二十周年式典挙行

 ・月、神野新田第一回農繁期託児所を圓龍寺に開き、以後毎年約十日間開設

     (時期は調べきれてないが、五郷にも開設された)

 ・日、代重助重慶、軽井沢万平ホテルに茶室蝸牛庵を立てて、茶会を催す

 ・二十二日、秩父宮、神野三郎宅に宿泊(二十六日まで)

 ・十三日、神野三郎、りきが秩父宮邸に招かねる、松茸と卵を献上

 ・重郎(後の代重助重信)、九日会に参加する

 ・代重助重慶、皇室や首相を犬山にご案内

 ・配分率(掟米四〇%、肥料代二〇%、小作分四〇%

 ・神野新田三郷公会堂が完成した

昭和五年(一九三〇)

 ・十五日、代重助重慶、日本放送協会金沢放送局の開局式に出席する

 ・十五日、初代金之助頌徳碑が神野新田に建立され除幕式が行われる

 ・日、神野太郎、花子の長男、信郎が生まれる

 ・二十日、名古屋鉄道と美濃電気軌道の合併が決まる

 ・日、名古屋鉄道は名岐鉄道に社名を変更する、社長は代重助重慶

 ・十四日、代重助重慶、東久邇宮妃殿下をライン下りにご案内

 ・十二二十八日、代重助重慶、借家・借地並びに商事調停委員となる

 ・代重助重慶、紺綬褒章を受ける

 ・神野新田豊作

 ・神野新田水火災予防仮設演習復活し四号地内で行う

 ・養魚飼料に鰯の使用開始

昭和六年(一九三一)

 ・十一日、中国観光団出発、副団長に神野三郎、二十一日帰着

 ・日、東久邇宮妃殿下が葵町富田邸に来泊される

 ・三十一日、神野新田産業組合開設三十周年祝賀会式を行う

昭和七年(一九三二)

 ・日、明治銀行、愛知銀行の合併大綱が新聞発表される(合併はしなかった)

 ・日、明治銀行が閉鎖される

 ・二十日、名岐鉄道、社長代重助重慶及び代金之助重孝取締役辞任、それぞれ相談役に就任

 ・日、明治銀行債務弁済のため、神野・富田両家は私財提供を正式決定する

 ・日、富田家は葵町居宅の取壊しを決定し、袋町の他家(富田孝造宅?)に仮寓する

 ・日、代重助重慶、名古屋商議所など一切の役職の辞表を提出

 ・日、池田鋹次郎亡くなる

 ・日(五月三十日説もあり)、明治銀行に対し、神野新田の土地建物を提供することを決定

 ・二十七日、神野三郎が小作役員に対し神野新田を明治銀行に引き渡すことと、管理は引き続き神野

         三郎が行うことを説明

 ・十六日、神富殖産社長の代重助重慶と副社長の代金之助重孝が神野新田小作人を三郷公会堂に

        集めて離別の挨拶を行う、神野新田は神野新田土地株式会社の管理運営となる

 ・日、牟呂吉田方村は豊橋市に合併、神野新田は神野新田町となる

 ・十四日、富田家は有価証券管理を目的とする養和会を設立、資本金三〇万、本社は白壁町

 ・十一月、重郎(後の代重助重信)、株式会社十一屋取締役に就任する

 ・十二十三日、丸物問題解決、神野三郎らが調停

 ・十二月、富田家一家、東区布池町に移転する

 ・十二月、日本人造毛織、豊橋へ誘致の計画あり

 ・神野新田が明治銀行の管理下になったことで、三郷青年団は神野富田両家への初穂米献上中止する

 ・二代金之助重孝が三渓荘を作る、神野新田事務所に移設していた鵜多須門戸を三渓荘に移築、現在も健在

  (新田事務所が明治銀行の資産となる前に門を移設しようと考えたはず)

昭和八年(一九三三)

 ・月、神富殖産会社所有の神野新田を神野富田両家で買い入れ、神富殖産を五〇万円減資する、また

     神野土地株式会社を創立して、これを明治銀行に提供、同行整理にあてることとする

 ・月末、神野新田二人会解散決定

 ・十五日、代重助重慶、心労のため六十一歳で亡くなる、従位を贈られる

        (百ヶ日の納骨時に名古屋の聖徳寺墓所に神野新田の小砂利を取り寄せ墓所周辺を整えた)

 ・日、重郎(後の代重助重信)、神富殖産株式会社代表取締役に就任する

 ・三十日、神野新田土地株式会社が設立され、神野三郎専務取締役に就任

 ・十四日、明治銀行が更生開業する

 ・二十日、神野三郎、豊橋電気鉄道の相談役から監査役になる

 ・二十七日、重郎(後の代重助重信)、福寿生命保険監査役に就任する、社長は代金之助重孝

 ・日、秩父宮来豊、神野三郎宅に仮泊

 ・十五日、神野三郎、秩父宮表町御殿へ御礼言上

 ・十一日、神野太郎、東京より豊橋に引き揚げ

 ・十一二十二日、名岐鉄道監査役に重郎(後の代重助重信)、代金之助重孝は相談役から取締役に

 ・十一月、神野りき、狭間学校後援会会長となる

 ・十二日、神野太郎、豊橋瓦斯に出社

 ・神野新田産業組合は第二日用品販売所を五郷区に設置

昭和九年(一九三四)

 ・日、名古屋財界の九日会が解散し旭会となる

 ・十五日、初代金之助の十三回忌を圓龍寺で営む

 ・日、富田家は養和会の資本金を四〇万円に増資する

 ・日、福寿生命保険、中区南大津町に新社屋を着工する

 ・日、重郎が代重助(重信)を襲名

 ・十四日、神野三郎宅へ人毛反対水産業者二五名位が訪問、以来警官が宅を警戒

 ・十五日、芳賀保治七十八歳にて亡くなる

 ・月、代重助重信、昭和毛絲株式会社監査役に就任する

 ・二十二日、宮部圓成、圓龍寺住職八十九歳 で亡くなる

 ・十二十六日、豊橋瓦斯支配人に神野太郎が就任

 ・十二二十四日、神野三郎、アサヒ蓄音器商会社長辞任

昭和十年(一九三五)

 ・月、代重助重信、名古屋国際ロータリー倶楽部に入会する

 ・十三日、神野三郎、岡崎瓦斯取締役就任

 ・二十三日、神野三郎、岡崎瓦斯取締役社長就任

 ・月、代重助重信、中村円一郎らと台湾視察旅行に出発

 ・月、代重助重信、紅茶園経営に着手する

 ・十九日、代重助重慶の頌徳碑が神野新田に建立され除幕式が行われた

 ・十三日、福寿生命の新社屋が完成する

 ・月十七日、毛利祥久が引退の届け出有り

 ・日、名岐鉄道は愛知電気鉄道を吸収合併し、名古屋鉄道株式会社が発足、代重助重信監査役に

       就任する、副社長は代金之助重孝

 ・日、神野新田養魚解散

昭和十一年(一九三六)

 ・十五日、神野同族は商号を大八企業と変更

 ・日、神野三郎兄弟、「五〇〇歳記念」の集い

 ・二十四日、神野三郎、豊橋商工会議所会頭辞任

 ・二十日、代重助重信、愛知化学工業株式会社監査役に就任する

 ・十二月、神野三郎、豊橋瓦斯常務取締役辞任し相談役へ、神野太郎取締役就任

 ・神野新田産業組合、神野新田土地株式会社敷地一、二七三坪買い受け、共同作業場、籾の乾燥冷却、

  籾摺り機などを新設する

昭和十二年(一九三七)

 ・日、神野三郎、岡崎瓦斯社長辞任

 ・二十六日、東亜食品設立、神野三郎社長に就任

 ・二十八日、神野三郎、アサヒ蓄音器商会取締役辞任

 ・日、代重助重信、大谷派名古屋別院維持財団参与会員となる

 ・月、神野三郎、狭間小学校へプールを建設し寄付

 ・日、シナ事変起こる

 ・月、豊橋市築港地域を神野新田に決定、神野新田土地会社より土地入手

昭和十三年(一九三八)

 ・月、代重助重信、名古屋重工業株式会社(愛知時計の傍系会社)の取締役に就任する

 ・六月二十九日、明治銀行の業務廃止が決議される

 ・八月三日、明治銀行の業務廃止が認可される

 ・神野新田産業組合は共同作業新設、長生病院を移転改築、共同加工場(製粉、製麺、製穀、肥料配合、

  みそ溜醸造)その他数棟を建築する

昭和十四年(一九三九)

 ・三十日、神野三男(神野三郎の三男)、神野本家の養子となり名古屋観光ホテルで披露宴

        (明治二十四年の家政要則に従えば神野家の跡取りがいない場合、富田家からの養子と

         決められていたが、この時代になると実態に合わなくなったよう?)

 月、代重助重信、名古屋重工業株式会社取締役に辞任する

 ・月、神野新田産業組合、事務所新築完成、諸設備の運転を開始

 ・十四日、神野三郎、東亜食品取締役辞任

 ・二十八日、神野三郎、豊橋川魚問屋取締役辞任

 ・日、代重助重信、大谷派本廟維持財団参議員となる

 ・十三日、丸通証券保有設立、神野三郎監査役に就任

 ・十一日、豊橋電気軌道監査役に神野三郎就任

 ・十二月、代重助重信、養和商事株式会社(同族不動産保全会社)設立し社長に就任、資本金八〇万円

 ・神野三郎、蚕糸周旋社長に就任

 昭和十五年(一九四〇)

 ・二十日、代重助重信、福寿生命保険監査役を辞し、取締役に就任する

 ・十五日、株式会社養和会を改組、元葵産業株式会社に商号を変更、一族の株式を評価額で引取る

 ・月、代重助重信、大日本木材防腐株式会社監査役に就任する

 ・十九日、神富神明社上棟式

 ・神野新田長生病院は戦争による医師の欠員により閉鎖せざるをえなくなる

 ・養魚池のヘドロを田面に汲み上げて肥料とした

 ・配分率(掟米三七%、肥料代二二%、小作分四一%


出典一覧

 ・神野新田紀事(1904年)・県外模範事業視察記(1908年)・郷土見学の栞(1937年)・神野金之助重行(1940年)

 ・開校廿周年記念東三河産業功労者伝(1943年)・酒井正三郎著神野新田(1952年)・神野三郎伝(1965年)

 ・紅葉舎類聚(1977年)・藤田伝三郎(Wikipedia)・木曽三川分流工事(Wikipedia)・神戸大学電子図書館システム

  -新愛知-大正3年9月8日-電鉄役員遂に総辞職 ・国立公文書デジタルーカイブ-叙位裁可書(大正十一年-叙位巻四

 ・独立行政法人水資源機構 ・岩津天満宮HP ・新洋行土産. 上巻

 以上を参考に編集し掲載しました。